山口・飯ヶ岳

2023年04月16日

山口市から北東に20km、島根県との県境に近い飯ケ岳。標高1000mに満たないこの山の一帯は滑山(なめらやま)の名で、歴史に登場します。時代は800年前、鎌倉時代。源平合戦によって焼け落ちた東大寺大仏殿の再建にあたって、この地の木材が使われたことが記録に残っているのです。

ことの経緯は、海野聡『森と木と建築の日本史』(岩波新書 2023)に詳述があります。この時代、すでに巨材は枯渇しており、造営にあたった僧・重源(ちょうげん)は、周防の国にそれを求めます。少し長くなりますが、同書から

同年(文治二年・1186年)に重源は(中略)海路で周防に入ったが、源平合戦による被害も大きく、国中の人が飢えていた。そのため重源は船の米をことごとく放出して施した。そして杣人に良木探しを命じ、ようやく七丈(約21m)から十丈(約30m)の長さで太さ五尺四寸(約162cm)の巨木を発見できたのである。ただし巨木であっても内部が空洞になっていたり、節が多かったりなどの難点のあるのも多く、数百本を伐木したとしても、使える材は十~二十本にとどまった。

さらりと書かれた木の大きさが半端ではありません。。。この当時の林相を見るのはもはや望めないことですが、巨木の後裔が残る山を見たく、訪れてみました。

朝8時に飯ヶ岳の登山口に到着。「林木遺伝資源保存林」の新しめの看板。周遊できる登山道は、比較的最近、国有林によって整備されたのだそうです。

登山口は標高500mほどですが、常緑樹も多く見られました。春の雰囲気が感じられます。タブノキ、ホソバタブ、シロダモ。

ウラジロガシ、アカガシ、シリブカガシ。

サカキ、ヒサカキ。

ヤブツバキ。

ハイノキ。

アセビ。

イヌツゲ、シキミ。

10分に登ったところに看板。今日の見どころである「滑松」(なめらまつ)について。滑松はこの地域の樹齢200年以上のアカマツの通称で、東大寺の大仏殿に使われたのもこれであったようです。その後の時代も資源は残り、昭和の時代にも皇居の造営や、昨日訪れた錦帯橋の修理用材に使われたとのこと。

滑マツの特徴は、枝下が高く枝が少ないこと、材が通直でうらごけが少ない(太さの変化が少ない)こと。この木は直径80cmほどの見事なもので、要件を十分に満たしています。

それにしても、、、これを大きく超える太さの20ー30m材が数百本とれたとは、、、想像もつきません。

さらに、滑松は、樹皮が極めて薄く、年輪幅が均等で真円、辺材部が少なく、心材が赤色鮮明で光沢に富む、のだそうです。

しかし、当然とも思えますが、こうした形質良好なマツはわずかにしか残っていないようです。繰り返された伐採に加えて、看板には台風による風倒の影響が特筆されていました(マツ枯れの記述はなし。どうなのでしょうか?)。モニタリングを行いながら、現在は基本的に保全しているとのこと。

球果。

看板に示された滑松の生育地はごく限られていましたが、登山道がある尾根上には断続的にアカマツが出現していました。

一方、広葉樹が多い箇所。

クリ。

コナラ。

ミズナラ。標高が上がると多くなりました。

そしてブナも。

イヌブナ。

ミズメ。

ウリハダカエデ。カエデの中ではもっとも多かった印象。

イロハモミジ、オオモミジ。

ハウチワカエデ、イタヤカエデ。

ミズキ。

ホオノキ、コシアブラ。

ナツツバキ。

ウラジロノキ。

クロモジ。

リョウブ。

コバノミツバツツジ(花も同じ?)。

ヤマウルシ、ミヤマガマズミ。

滑松の大きな生育地 である北側の尾根を遠望。優雅な樹形。

標高が上がると、落葉樹が多くなり、展葉も遅い分明るい印象になりました。

歩きはじめて1時間半。標高937mの頂上に到着。立派な枝ぶりのアカマツが出迎え。

頂上付近からの眺め。晴れ間が出て暖かく、静かな春を満喫。

下りは南側の別ルートから。こちらはササの繁茂が著しく、道を失わないよう気をつけながら下っていきました。

ブナ、イヌブナのすばらしい森林が広がっていました。

引き続き、ところどころにアカマツが混交。

新緑に ツツジが色を添えます。

緩斜面ではとくにチシマザサが密生。

途中、沢に沿って歩き箇所も。風がさわやか。

コナラが多い広葉樹林。

もとの道に戻るあたりにはヒノキの人工林。

お昼前に下山しました。全行程で3.5時間。他のくるまはなく、今日の登山者は自分ひとりだった模様。


三本杉

このあとは時代を下って、藩政時代に起源をもつ森を2箇所。登山口からくるまで少し戻った個所。カラフルな看板は「森の巨人たち100選」三本杉。

推定樹齢は300年。直径は太いものから順に162、146、98cm、樹高は46mに達するとの記述。見事です。

周辺に残された広葉樹もなかなか大径。クリ、エノキ、イヌシデ。


毛利藩モミ林

もう一カ所、林道入口にくるまを停め、かつて集落に通じていた林道を歩きました。北向きに流れる沢(密成川)沿いは、空が曇ったこともありやや暗い感じ。

シェルターで苗が保護された人工林。

とくに道標もなく、やや不安も感じつつ急な林道を登ること30分。目的地の看板にいきあたってホッとしました。

「滑山モミ希少個体群保護林」、別称は「毛利藩モミ林」。1800年代初頭に山引苗を移植したモミの人工林です。モミは、植栽されることがあまり多くないので、高齢であることも相まって、確かに希少な森林です。

樹齢は200年強ということになります。10年ほど前の調査で、直径180cm以上の木が約80本確認されているのだそう。すばらしい。

低木層には常緑・落葉樹が混交。言われなければ、人工林と気がつかないかもしれない林相でした。植栽時、どのような森になることを思い描いていたのでしょうか。

ヤブニッケイ、カゴノキ。

カヤ、ユズリハ。

アラカシ、イチイガシ。

ウワミズザクラ、サンショウ。

サワグルミ。

アカメガシワ、アオキ。

ツガ。全体に、登山道より標高が低い(~400m)ことを反映した植生と感じられました。


佐波川

残り時間はふたたび鎌倉時代の遺構めぐり。狭い林道を国道に戻って、佐波川の大原湖というダム湖に出ました。このダムの少し下流側が次の目的地だったのですが、今朝の土砂崩れ(←なんと) で道が通行止め。大回りして、たどり着きました。

野谷石風呂、の看板。鎌倉時代の伐採の折に重源がつくった、病気治療・保養のための「風呂」なのだそうですが、私の想像とはだいぶ違うものでした。5平方m×高さ1mほどの狭い岩穴を利用した蒸し風呂だったのだそう。仏教における潔斎の意味もあったようで、この地域には数カ所が確認されています。

イチョウ、フジ。

少し下流に移動したところに当時の史跡がもうひとつ。関水(せきみず)とは、伐採木を川で運搬(流送) するとき、水深が浅い箇所の水かさを増すために水を堰き止めて石畳の水路とした箇所のことを指します。伐採にあたってこうした関水が流域に118ヵ所作られたのだそう。現存するこの箇所の規模は幅3m、延長46m。

800年前の運材の様子に思いを馳せました。川に浮かべてからもこの苦労、、、大径木を伐倒し山から運びだすのにかかった労力は想像を絶しています。ふたたび『森と木と建築の日本史』から

さらに巨木を険しい山から運び出す道が悪路であったため、道を開き、橋を架け、新たな搬路を確保しなくてはならなかった。巨材の重さは通常の木材輸送の域を超えており、巨大な木材一本を動かすのに千人あまりもの力が必要であったが、重源が妙案をひねり出し、滑車を用いることで、六、七十人で運べたという。同時に巨材に掛ける綱にも大きな力がかかるため、太さ六寸(約18cm)で長さ五十丈(約150m)もある綱を使ったという。

綱はツル植物でつくったというわけです。これも何日を要したのか。。。このあと、記述は、佐波川から瀬戸内海を経てふたたび陸揚げされ、東大寺に運ばれるまでの経緯に至っています。

(ここにあったタイル貼りの看板による一連の作業説明が、当時の想像図も含めてわかりやすく秀逸でした。こちらも下に)

いまは変哲なく見える山と里、わずかに残る歴史の残り香をたのしむ森の旅でした。