伊那・大鹿 大地の動きと多様な森と

2024年06月29日

長野県の南部、伊那谷は、地質学的に言えば、東北日本と西南日本の境界地域です。「フォッサマグナ」が伊那谷の東、赤石山脈(南アルプス)の山麓域を南北に走っており、それは地図上にまっすぐ延びる谷や道路からも窺うことができます。大鹿村は、まさにそうした地溝帯の真上に位置しています。

このような大鹿村の立地、二つの意味で多様な森林をもつ源泉になっています。それは大きな標高差と複雑な地質・地形条件。実際、村の標高は600~3100mと実に2500mを超える幅をもち、多くの断層で区切られた特性の異なる地質が分布しています。

かつて学生時代に山登りで訪れた懐かしさも後押しして、この村を2日間歩いてみました。

まずは亜高山帯域を見に行きます。

南アルプス・三伏峠への登山口(標高1,780m)から登りはじめました。

ここから3時間かかる三伏峠は「日本一高い峠」(標高2,600m)として知られています。そこから北東には塩見岳、南には赤石岳(大鹿村の最高地点) という3,000m峰へのアクセス点です。私がむかし登ったのは前者なのですが、そのときは今日歩くルートはまだ存在せず、後述する大鹿村・鹿塩地区へのより長い道のりを(バテバテになりながら)下山したのでした。そのときは 森を見る余裕はまったくなかったので、初訪問に近い気分です。

最初はカラマツ人工林の中。林齢は40年近いでしょうか。

時刻は9時前。登山ルートとしては、いずれの方向へもたいへん長い距離があるせいか、この時間に歩いている人はほとんどいませんでした。

林床は一面のシダ。イワガネゼンマイ、リョウメンシダ。

ところどころにシラビソが天然更新。

尾根まで登りきると人工林はここまで。待望の亜高山帯の天然生針葉樹林になりました。コケ型の林床。

優占種はシラビソ。

そしてコメツガ。

あまり多くはなかったもののトウヒ。トウヒ属ではイラモミも分布しているようでしたが、わかりませんでした。

このタイプの針葉樹林は一般には稚樹が豊富で、上層を占める木の枯死(林冠ギャップの形成)を契機に世代交代が進むとされます。ただ、ここでは稚樹がそれほど多くない印象。シカの食害の影響があるのかもしれません。

部分的にはカラマツも混交。(ただ、自生地ではあるものの、人工林が近いのでそこからの逸出の可能性もあるかも)。

ダケカンバ。大きい攪乱の跡地でパッチ状に優占していました。

亜高山帯ではおなじみの中下層木、ネコシデ。

同じく、オガラバナ。

ナナカマド

マユミ、ヒロハツリバナ。

ミヤマイボタ。

コガネイチゴ。

きつい登りはないまま、2,160mの鞍部に到着。当初、三伏峠まで行くかどうか迷っていたのですが(→あと行程2時間)、今日は天候もあまりすぐれないことから、ここからメイン登山道をはなれて西への尾根に向かうことに。

地形図には記述がないのですが、はっきりした道がありました。

林相は、引き続き、シラビソが優占。多雪地だと優占度が高くなるオオシラビソは(気がつかなかっただけかもしれませんが)見つけられませんでした。

登山口から1.5時間。とても静かな、豊口山(標高2,231m)山頂に到着。 深い森に囲まれて展望はありません。針葉樹林の雰囲気に十分満足。

山頂近くに、ヒロハカツラ。大きな林冠ギャップで生育している様子でした。出会ったのはとても久しぶり。

下り道も静かな中。

いったん登山口に戻りました。実はここに来た目的は、もうひとつ。

この付近に、トウヒ属のヒメバラモミ、ヤツガタケトウヒが生育しているのです。北海道(エゾマツ、アカエゾマツ)に比べると、とてもマイナーな存在である本州のトウヒ属。この2種は、ともに最終氷期には広く分布していたとされますが、 現在はとくに希少で、ともに八ヶ岳(と秩父)ここ南アルプス近辺でしか見られません。

この場所での生育箇所は登山道南側の斜面に限られるとのこと。ただ、幸い(と言ってよいかわからないですが)その斜面の下部を林道が通っています。

そこで、斜面を下から見上げながら林道を先に進んでみました。

すると、すぐに原生度の高そうな森林の様子が窺えました。

直径60-70cmクラスの大径木が中心の針葉樹林。

登山道沿いでは出会わなかった、クロベが多く見られました(中にはヒノキもあったかもしれません)。

シラビソ。

コメツガ。

それらの中に、直径1m近い!トウヒ属の大径木がありました。葉に手が届かないので種判別ができませんが、、、

近くに、葉の特徴からヒメバラモミと思われる個体を発見することができました。

この樹種がこの斜面に限って分布している要因としては地質の影響―具体的には石灰岩の分布が挙げられています。ただ、この場所は石灰岩は近くにあるもののむしろ砂質土壌だとのことで、そう単純でもなさそうです。

急斜面ですが、林内の見通しはよく、しばらく彷徨。葉と樹皮。  

古い球果。林内に稚樹はごく少なかったものの、マウンド上に高さ1m足らずの個体を発見。定着サイトが限られるのは、北海道のトウヒ属(エゾマツ、アカエゾマツ)と同様です。

こちらは岩の上に定着した個体。元気そう。

林内には広葉樹も混交していました。一番目立ったのはダケカンバ。

続いて、シナノキ。

ミズナラ、サワグルミ。

オオモミジ、オオイタヤメイゲツ。

コハウチワカエデ、ハウチワカエデ。

タカネザクラ、ウラジロノキ。

林道から比高50mほど、踏み跡をたどったら尾根まで登りつきました。アカマツ。

ゴヨウマツ。

尾根上から先は、さきほど歩いた登山道のあるカラマツ人工林。その中にもヒメバラモミの稚樹を発見! 自生地の外でシカの影響も心配ですが、末永く育ってほしいものです。

さて、情報によれば、さらに東に行くと明瞭な石灰岩地となり、そこにはヤツガタケトウヒがあるとのこと(ヒメバラモミとの分布は重ならない)。

が、地形図を見るとそちらはさらに斜面の傾斜がキツくなり、岩塊斜面になる模様。実際の様子を窺ってみても、行くのは難しいと判断しました。手前に1個体でもないかとしばらく見まわしましたが、、、少々残念でした。

とはいえ、よい森に出会えて満足し、林道に戻りました。 

登山口の背後には大きな石灰岩の岩壁が見られました。そこに自生するイワシモツケがみごと。

林道を歩いて下っていきます。行きには見えなかった展望が少し開けていました。

最初に記したように、登山口の標高は1,780m。ちょうどこのあたりで亜高山帯が終わり、次第に山地帯に移行していきます。実際、林道沿いは、常緑針葉樹がぐっと減り、落葉広葉樹が豊富でした。

アワブキ。

カツラ。

ブナ。ほんのわずかですが、見かけました。

ミズナラ。

ミズメ。

ウダイカンバ、シラカンバ。林道沿いで意外にも はダケカンバが少なめ。

オニグルミ。

ケヤマハンノキ。

アカシデ、クマシデ。

ヤナギ、イヌエンジュ。

カエデが豊富。オオイタヤメイゲツ。

ウリハダカエデ。

イタヤカエデ。

エンコウカエデ。

メグスリノキ。

チドリノキ。

ミズキ。

シナノキ。

ハリギリ、タラノキ。

林道の先が山の中腹に見えています。その周囲は(ある意味当然ながら)一面の人工林。

人工林の樹種はほぼカラマツ。

ヤマブドウ、マタタビ、サルナシ。

ヤハズハンノキ。

ヒメヤシャブシ。

ツノハシバミ、コアジサイ。

バイカウツギ、ウツギ。

ヒメウツギ、マツバウツギ。

ハクウンボク。

オオバアサガラ。ちょうど花期でみごとな姿に出会えました。

ドウダンツツジ、リョウブ。

タニウツギ。

14時。車両通行止め地点の駐車場に戻りました。

くるまで少し移動し、展望台(夕立神パノラマ公園)に立ち寄りました。

左は、いま訪れた豊口山・三伏峠方面。3,000m近い主稜線は雲にかくれて見えませんでしたが、晴れ間が出てきただけでも何より。右は、はるかかなたに伊那谷の街。

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村内あちこち

よく整備された林道をゆっくり戻り、標高700mほどの市街地へ。

このあとは村内をめぐってみます。大鹿村の人口は現在1,000人ほど。北側の鹿塩川流域(旧鹿塩村)と、南側の青木川流域(旧大河原村)に大きく分かれています。

まず北側の鹿塩地区へ。この付近では塩泉が豊富に湧出しており、それが地名の由来です。学生時代の登山の際は、疲れきって下山して塩分たっぷりの温泉に入ったのが懐かしい思い出(今回は混み合っていて宿泊できず)。古くから製塩が行われていたことでも知られています。地域の直売所で山塩を入手した後、散策。

集落の中心にある市場神社。本殿に向かって左側には、300年前から伝承されてきたという大鹿歌舞伎の舞台。村内の地区ごとに舞台があり、ここはいまも公演が続く2つのうちの一カ所だそうです。

鳥居の脇には高さ15mを超えるかという「御柱」がたてられていました。「令和四年四月吉日」との記述。

次は村内南側の大河原地区に移動して、江戸時代からの旧家「松下家住宅」。川から比高100m以上の平坦地に固まった集落の中心にありました。管理されている方から、村の話をあれこれ。

アカマツの大梁。

現在の村の中心、上市場・下市場地区にある郷土資料館「ろくべん館」。館内の歌舞伎舞台は日々の練習にも使われているのだそうです。「ろくべん」は、歌舞伎のようなハレの日に持参する数段重ねの木製弁当箱のこと。

大鹿村の森林率は96%。

大鹿村は「榑木」(くれき)と呼ばれる、ヒノキ、サワラ、ネズコなどの良質な大径木の生産が平安時代から行われ、江戸時代には天領となりコメに代えて年貢として幕府に収めていた歴史があるのだそうです。「榑」とは見慣れない漢字ですが「山出しの板材」の意味。榑木を生産する村々と、それを支援する食料を供給する村々からなる「榑木成村」の歴史。

榑木以外の「雑木」からは、木地師が椀や盆をつくったほか、櫛や経木、板などが村の貴重な収入源となっていたのだそうです。

ただ、大正時代以降、製材事業がはじまり開発が進むと、良材は奥地まで伐りつくされ、多くの山林は荒廃したと言います。

ろくべん館の隣には、フォッサマグナ上に位置する村にふさわしい「中央構造線博物館」。各種の岩石の展示。中の展示も充実。

中央構造線の場所を示す看板。左手が内帯(西:日本海側)、右手が外帯(東:太平洋側)になるのだそう。

日をあらためて、そこでの情報をもとに「中央構造線の名所」を見に行きました。ふたたび村の北部、北川露頭。

地層の境界がすごく明瞭で、驚きました。写真手前の赤色部が内帯で、高温のマグマが地下でゆっくり固まった花崗岩。緑色の外帯は地下深くで、比較的低温ながら高い圧力を受けた結晶片岩だそう。

森に目を向けると、 天然林はすっかり温帯林の雰囲気。トチノキ。

オニグルミ、ヤチダモ。

イロハモミジ、ハウチワカエデ、イタヤカエデ。

アブラチャン、ヤマグワ。

さらに北の村境近くまで移動したところには、直径2m 、樹高29mに達するサワラの大木。

この木は「矢立木」と呼ばれており、戦国時代、弓術の修練が行われた伝承があるそうです。このような木がかつては林立し「榑木」だったのかと思います。

さらに村内の名木をめぐります。鹿塩地区にある、こちらは直径1.5mのアカマツ。子供の夜泣きを止めたという伝承がある「夜泣き松」。

村の里山域には端正な立ち姿のアカマツ林が多く見られました。アカマツの民有林での面積比率は6%で、広葉樹(40%)、カラマツ(34%)、ヒノキ(9%)に次ぐ存在。

それほど目立たないものの、シラカバの二次林も。

二次林の優占種、ミズナラ、コナラ。

そしてクリ。ちょうど花期でした。 クリは、実が食糧源であったとともに、ぞの堅牢な材が建築用材として各所につかわれました。とくに、この村にとって重要な治水(牛枠と呼ばれる木製堤)における適材であったそうです。

カキノキ。

スギ人工林。スギはアカマツに及ばない面積比(4.5%)と位置は低め。

名木めぐりに戻って、鹿塩川に近い斜面上にある、直径1.9m、樹高35mの巨木。長野県随一のシラカシ。天正年間(1590年)に植栽された記録があるそうです。植栽とはいえ、亜高山帯針葉樹林から直線5kmほどでこのような立派な常緑カシに出会えることにおどろきます。

そして、名木めぐりのハイライトは、山では出会えなかったヤツガタケトウヒ。

ろくべん館から見える、街に近い立地でしたが、道が少々わかりにくく、係の方に聞いてみたらくるまで先導してくださいました。地元では昔からよく知られる存在だそうです。

看板には「ヒメマツハダ」と記載されていました。球果が大きいものがこの名に分類されていたのですが、近年はヤツガタケトウヒの個体変異とする見解が示されています。

この木は、大正時代に小学校の先生が幼樹を移植したもの。100年生を超える樹齢ということになります。

木が大きすぎて葉が見えなかったのですが、、、稚樹を1本発見。葉の特徴は一応確認できました。

分布が限られる樹種ですが、大鹿村内には数か所の自生地が知られています。自生の様子はみられなかったものの、いずれの個所も普通には近づきがたい立地のようでもあり、ここで出会えて満足しました。

この木の前から真西の方向、街のむこうに、山が崩れた箇所が遠望できました。これは1961年の「三六災害」 による崩壊地。中央構造線の内帯側は地形が急峻となり、もろく崩れやすい地質条件なのだそうです。このときの崩壊は高さ450m、幅500m、厚さ15mに渡り、山津波となって対岸の家屋、田畑を飲み込んだとのこと。

6月29日はちょうどその災害から63年目にあたっていました。。まだ見える地肌が、その規模の大きさを語っています。

被災地はいまは整備されて公園になっていました。

さきほどとは逆方向に立ち、今度は東側、街の方向を眺めると、ちょうど晴れ間が出て、かなたに赤石山脈がすがたを見せていました。

この山々に深く囲まれた村で、標高差2,500m近い山頂付近を障害物なく望めるのは、断層に沿って谷が一直線に刻まれているためだとのこと。自然の厳しさとまさに表裏一体、、息をのむような山村の景色でした。